[1] フラストレーションの強いスピン系

目次

1-1 古典的三角格子反強磁性体

図1のような三角格子上に磁性イオンが配置し,磁性イオンのスピン間にスピンを互い反平行にしようとする反強磁性的な交換相互作用が働く系を三角格子反強磁性体と呼びます.スピン間の交換相互作用が内積で表される等方的なハイゼンベルク模型 Jij (SiSj) の場合やz成分のないXY模型 Jij (SixSjx + SiySjy) で表される場合の基底状態を,まず古典スピン模型で説明します。最もエネルギーの低い基底状態は強磁性や反強磁性のような平行或いは反平行といった直線的な構造ではなく,互いに120°をなす三角構造になります.このように,相互作用の競合によって,全ての相互作用エネルギーを最低にするができない状況をスピンフラストレーションと呼んでいます.三角構造ではスピンは互いに120°をなして配置し,妥協した状態になっています.量子効果のない古典スピン模型でも,スピンの安定な向きを決める異方性の符号や大きさ,或いは三角格子面間の交換相互作用の符号や大きさによって逐次相転移や多彩な磁場中相転移が起こります.更に磁気励起はスピン構造の特殊性を反映して複雑で多彩になります.

三角格子反強磁性体と三角スピン構造(120°構造)
図1:三角格子反強磁性体と三角スピン構造(120°構造).

私達はCsNiBr3などの六方晶ABX3型三角反強磁性体を対象に,波数ゼロの集団励起である反強磁性共鳴(三角格子反強磁性共鳴)の研究を電子スピン共鳴(ESR)によって行いました.私達のグループが中心となり,これまで殆ど手付かずだった三角格子反強磁性共鳴のかなりの部分が解明されました.図2はその一例で,CsNiBr3における周波数と共鳴磁場の関係を表したもので,記号が実験で実線が理論です.この集団励起は常磁性体の磁気共鳴のように,周波数が磁場に比例する単純なものではなく,多彩で美しさがあります.(神戸大学との共同研究)

CsNiBr3とCsMnI3で観測された三角格子反強磁性共鳴の周波数と磁場の関係
図2:CsNiBr3とCsMnI3で観測された三角格子反強磁性共鳴の周波数と磁場の関係.実線は理論.
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1-2 三角格子量子反強磁性体

S = 1/2三角格子Heisenberg反強磁性体の基底状態については,Andersonによって,2つのスピンがsingletを組み,それが時間的に変化し,液体のようになるというResonating-valence bond (RVB) 理論が提案され,これに触発されて理論的研究が活発に行われました。現在の理論的コンセンサスは「基底状態はスピン液体ではなく,図1に示した120°構造になる」です.しかし,量子揺らぎによって,磁気モーメントの長さは相当小さくなります.

ゼロ磁場の基底状態は定性的には古典スピン模型の基底状態と同じですが,磁場中の基底状態は量子揺らぎの効果で,古典スピン模型のものとは全く異なります.三角格子反強磁性体に磁場を加えた場合を考えるとき,スピンを古典的なベクトルのように扱うと,安定なスピン構造は一意的には決まらず,古典的基底状態には無数の縮退が残ります.このとき,基底状態の決定に量子揺らぎが重要な役割を果たします.この量子揺らぎのために,磁場中で3倍周期のup-up-down構造が有限の磁場範囲で安定化され,磁化曲線に飽和磁化の1/3の位置に平坦領域(プラトー)が現れることが理論的に予言されました.通常,量子揺らぎは磁気秩序を壊すように作用しますが,この場合は逆に磁気秩序を起こすような作用をもちます.このように,無数の縮退した状態から量子揺らぎによってある構造が安定化される現象は揺らぎによる秩序(order by disorder)と呼ばれています.量子揺らぎはスピンの大きさSが小さいほど大きくなります.私達は,2次元性のよいS = 1/2三角格子反強磁性体Cs2CuBr4において,量子揺らぎに起因する磁化プラトーを初めて発見しました.図3はその磁化プラトーを示したものです.この物質では更に高磁場中で磁気異方性と量子揺らぎによる幾つもの相転移が観測されています.このように,古典スピン模型では磁化は飽和するまで単調に増加するだけですが,量子三角格子反強磁性体では量子揺らぎによって,磁場中で異なる量子状態への相転移が逐次的に起こります.このように相互作用の連続的な変化によって起こる異なる量子力学的基底状態間の相転移を量子相転移と呼びます.(東大物性研,Helmholtz-Zentrum Berlin,Florida大との共同研究)

S=1/2 三角格子反強磁性体 Cs2CuBr4 における1/3磁化プラトー
図3 : S=1/2 三角格子反強磁性体 Cs2CuBr4 における1/3磁化プラトー.

上述のCs2CuBr4では,三角格子が二等辺三角形状に歪んでいて,更にDij ⋅ [Si × Si]のように表される反対称なDzyaloshinsky-Moriya相互作用のために,定量的な理論解析が簡単ではありません.私たちは物質探索を行い,Ba3CoSb2O9が歪みのない正規の三角格子をもつ2次元的なS = 1/2の理想的な三角格子Heisenberg反強磁性体であることを見出しました.図4にBa3CoSb2O9の結晶構造を示します.青い八面体の中心にスピン1/2をもつCo2+が位置し,ab面内で三角格子を形成しています.八面体配位のCo2+のスピンが低温で有効スピン1/2で表されることは量子力学を用いて説明されますが,ここでは省略します.図5(a)にBa3CoSb2O9の粉末試料で観測された磁化曲線を示します.量子揺らぎに起因する1/3磁化プラトーが明瞭に観測されます.また,実線や破線で表された高精度の理論とも定量的に一致しています.その後,Ba3CoSb2O9の単結晶を育成し,より詳細な実験を行いました.図5(b)は,電子スピン共鳴で測定した磁場を三角格子面に垂直に加えたときの波数ゼロの集団励起の周波数・磁場ダイアグラムです.(東大物性研,東北大金研との共同研究)

Ba3CoSb2O9の結晶構造
図4 : Ba3CoSb2O9の結晶構造.(a)は単位胞全体の構造で,(b)はab面内の構造.

Ba3CoSb2O9の(a)粉末試料の磁化曲線と,(b)磁場を三角格子面に垂直に加えたときの波数ゼロの集団励起の周波数・磁場ダイアグラム
図5 : (a) Ba3CoSb2O9の粉末試料の磁化曲線.測定温度は1.3 K.(b) 磁場を三角格子面に垂直に加えたときの波数ゼロの集団励起の周波数・磁場ダイアグラム.

通常の磁性体の磁気励起は個々のスピンが平衡位置の周りを歳差運動し,それが波のように伝わるスピン波で表されます.その最も簡単な定式化が線形スピン波理論です.スピン波を量子化したものがマグノンです.マグノンの励起エネルギーと波数ベクトルの関係を分散関係と言います.一方,S = 1/2三角格子Heisenberg反強磁性体の磁気励起は線形スピン波理論から大きく異なることが最近の理論研究で明らかになりました.しかし,基底状態とは違い,理論的なコンセンサスは少ないのが現状です.逆格子空間のK点(三角構造の磁気秩序に対応する波数ベクトルの点)近傍の波数ベクトルのマグノン励起は線形スピン波理論と一致しますが,波数ベクトルがK点から離れると,励起エネルギーは線形スピン波理論の結果よりも急速に低下します.また,分散関係にはM点と呼ばれる位置に極小が現れることが知られています.この極小はヘリウムの格子振動に現れるロトン(roton)と呼ばれる分散関係の極小に対応させ,roton-like minimumと呼ばれています.ある理論は,このroton-like minimumは基底状態になることができなかったRVBの残影と解釈しています.

磁気励起を観測する最も有力な実験は中性子非弾性散乱です.しかし,中性子非弾性散乱を行うためには大きな単結晶が必要です.私達はBa3CoSb2O9の大型単結晶を育成することに成功し,これを用いて中性子非弾性散乱実験を行い,図6に示したように,S = 1/2三角格子Heisenberg反強磁性体の磁気励起の全体像を捉えました.励起スペクトルの特徴は3段階のエネルギー構造になっていることです.1段目が単一マグノン励起で,2段目と3段目が分散のある連続励起です.このようなスペクトルの構造は我々の実験で初めて明らかになりました。1段目の単一マグノン励起に関しては,理論で予言されていることが確認されましたが,高エネルギーの強い連続励起は現在の理論では説明できません.この連続励起は全スピンの大きさが1だけ変化するマグノン励起に代わる分数スピン励起を強く示唆しています.(J-PARCセンターとの共同研究)

Cs2CuBr4とBa3CoSb2O9の他にもBa3NiSb2O9やBa2La2MTe2O12 (M = Co, Ni) などの量子三角格子反強磁性体を開拓し,その量子磁性を研究しています.また,Ba3CoNb2O9のような3次元的な古典三角格子反強磁性体の磁気相図の研究も行っています.

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図6 : J-PARCに設置された冷中性子チョッパー分光器AMATERASで測定したBa3CoSb2O9の磁気励起スペクトル.測定温度は1 Kである.実線は線形スピン波理論の分散関係である.
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1-3 籠目格子量子反強磁性体

図7の(a)と(b)は籠目格子とその名前の由来である竹籠の編目の写真です.籠目格子反強磁性体 (Kagome lattice antiferromagnet) ではフラストレーションと量子効果がより顕著に現れます.特にスピンの大きさが1/2の場合には,基底状態が非磁性のsinglet状態になることが理論的コンセンサスです.しかし,基底状態が具体的にどのようなスピン状態であるかについて,理論上の統一見解はまだありません.singletが規則的に配列した固体状態や,singletの配置が時々刻々変化するスピン液体状態などが考えられています.S = 1/2の籠目格子反強磁性体がもつ,この極めて面白い性質は実験的に検証されていません.

籠目格子
図7 : (a)は籠目格子. (b)は籠目格子の由来である竹籠の網目.

私達はCs2Cu3SnF12やRb2Cu3SnF12などの新しい籠目格子反強磁性体を合成し,その磁性を調べました.そして,少し歪んだ籠目格子をもつRb2Cu3SnF12の基底状態が励起ギャップをもつ非磁性のsinglet状態であることを見出しました.図8(a)はRb2Cu3SnF12の磁化率の温度依存性です.基底状態がsinglet状態であること反映して,T = 0 Kに向かって磁化率はゼロになります.図8(a)は磁化率や磁気励起の実験から分かったRb2Cu3SnF12の基底状態です.Singletが風車のように配置しているPinwheel balance-bond solidという状態になっています.

Rb2Cu3SnF12の(a)磁化率の温度依存性と(b)基底状態
図8 : (a) Rb2Cu3SnF12の磁化率の温度依存性.青印は生データ,赤印は不純物の補正をした磁化率.実線は厳密対角化による磁化率.基底状態が非磁性であるため,磁化率は低温で急速に0に近づく.(b) 磁化率と磁気励起の解析から分かったRb2Cu3SnF12の基底状態.Pinwheel valence-bond solidと呼ばれるもので,水色の楕円で表したsingletが風車のように配置している.

Cs2Cu3SnF12は室温では歪みのない籠目格子をもっています.図9(a)はCs2Cu3SnF12の磁化率の温度依存性です.室温から40 K迄の範囲では,磁化率は理論とよく一致しています.しかし,TN = 20 Kで籠目格子面間の交換相互作用のために磁気秩序が起こります.また,Tt = 185 Kで構造相転移があることがわかります.図9(b)は中性子非弾性散乱実験で求めた磁気励起の分散関係です.一見すると,分散関係は線形スピン波理論でよく説明できるように思われます.しかし,線形スピン波理論を当てはめて得られる交換相互作用の値J/kB = 148 Kは,磁化率の解析から得られた真の値に近いJ/kB = 240 Kの約60%です.このように,マグノン励起のエネルギーは量子効果のために大きく下方に再規格化されることが分かりました.これは,負の量子再規格化と呼ぶことができる現象で,1次元反強磁性体で見られる上方への量子再規格化とは正反対の新しい現象です.(本学化学系,東大物性研,東北大多元研,タイMahidol大との共同研究)

Cs2Cu3SnF12の(a)磁化率の温度依存性と(b)マグノン励起の分散関係
図9 : (a) Cs2Cu3SnF12の磁化率の温度依存性.破線は厳密対角化による磁化率で交換相互作用の値はJ/kB = 240 Kである.(b) Cs2Cu3SnF12のマグノン励起の分散関係.実線は線形スピン波理論による分散関係で交換相互作用の値はJ/kB = 148 Kである.
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1-4 Kitaev相互作用をもつ量子磁性体

Kitaev模型は2006年にA. Kitaevによって考案された量子スピン模型で,図10のように,蜂の巣格子上でパウリスピンσが3つの異なる方向(x, y, z-link)に沿って

Kitaev模型のハミルトニアン
のようにIsing型の強磁性的相互作用をする模型です.この模型の特徴は交換相互作用定数Jx, Jy, Jzの広い範囲にわたって,基底状態が厳密にスピン液体状態になることと,熱力学特性や磁気励起が2種類のMajorana粒子で記述できることです.このために,理論と実験の両面で活発な研究がなされています.実験的研究を行うためにはモデル物質が必要です.Ir4+やRu3+などのスピン軌道相互作用が強く,有効スピン1/2をもつ磁性イオンが八面体配位をし,その八面体が稜を共有して配置する結晶構造をもつ場合に上の式で表されるKitaev相互作用が実現することが知られています.

蜂の巣格子上のKitaev模型
図10 : 蜂の巣格子上のKitaev模型.

α-RuCl3は八面体RuCl6が稜を共有して蜂の巣格子を形成する物質で,Kitaev模型の候補物質として注目を浴びています.α-RuCl3では蜂の巣格子面間の相互作用のために7.6 Kで磁気秩序が生じます.私達は磁化率,磁化,比熱測定などを通してα-RuCl3の磁性を総合的に研究しています.図11のように,エネルギーのスケールが異なる2種類のMajorana粒子の熱励起に伴うエントロピーの2段構造や磁場を蜂の巣格子面内に加えると,磁気秩序が消失するなどの現象を初めて観測しました.(東大物性研との共同研究)

α-RuCl3の(a)比熱,エントロピー,(b)磁気相図
図11 : (a) α-RuCl3の比熱を温度で割ったC/Tの温度依存性とエントロピーの温度依存性.(b) 磁場を蜂の巣格子面内に加えた場合の磁気相図.赤い中抜きの○がα-RuCl3の本質的相転移を表す.10, 12, 14 K付近の相転移は結晶中にある蜂の巣格子面の積層パターンが異なる相が示す磁気相転移である.
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