[3] 様々な空間構造をもつ量子スピン系

S = 1/2のスピンが梯子状(ladder)に配置したスピンラダーや2つのスピンが強い反強磁性相互作用で結合したスピン対(dimer)が2次元或いは3次元的にネットワークを組む系(スピンダイマー系)などでは顕著な量子効果が見られます.基底状態が小さな磁場を加えても磁化が出ない非磁性のsinglet状態で,励起triplet状態との間に有限のエネルギーギャップが開く現象が代表的な現象です.このような系は一般にスピンギャップ系と呼ばれています.また,磁化曲線にプラトーが磁場の方向によらず現れる場合があります.この磁化プラトーは磁化の量子化現象で,古くから知られているメタ磁性(スピン間の相互作用が Ising模型で表され,磁場を特定の方向に加えると磁化が階段的に変化する現象)とは異なる量子現象です.

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3-1 スピンダイマー系

私達はスピンダイマー系の物質として,KCuCl3,TlCuCl3,NH4CuCl3,Ba3Mn2O8を発掘しました.中でもTlCuCl3は私達が初めて合成した物質で,後に述べるtriplet励起(triplon)のボース・アインシュタイン凝縮(Bose-Einstein condensation: BEC)や圧力誘起量子相転移と磁気励起の振幅モード(Higgsモード)などの新しい量子磁性研究の端緒を開いた物質です.KCuCl3,TlCuCl3,Ba3Mn2O8の基底状態は非磁性のsinglet状態になります.図15はACuCl3 (A = K, Tl, NH4) の結晶構造の模型です.緑の板がCu2Cl6のダイマーで,これがスピンダイマーになっています.Aイオンは省いてあります.この系ではスピンダイマーがダイマー間の交換相互作用によって3次元的に結合していることが中性子非弾性散乱実験で求めた分散関係から分かりました.

ACuCl3 (A=K, Tl NH4)の結晶構造の模型
図15 : ACuCl3 (A = K, Tl, NH4) の結晶構造の模型.緑の板が Cu2Cl6 のダイマーで,a軸方向に積層している.

KCuCl3とTlCuCl3の基底状態は非磁性のsinglet状態ですので,磁気励起はtriplet励起(triplon)で,通常の磁性体のスピン波励起とは異なります.ダイマー上に生成されたtriplonはダイマー間相互作用の横成分 によって隣のダイマー上に移ることができます.このためにtriplon励起は波数によって励起エネルギーが異なり,分散をもちます.私達は,中性子非弾性散乱とESRで,その分散関係(励起エネルギーと波数の関係)を調べました.図16は中性子非弾性散乱で求めたTlCuCl3の磁気励起の分散関係です.実線はクラスター展開法で計算した分散関係です.(原子力機構,Hannover大,東北大金研との共同研究)

TlCuCl3のtripron励起の分散関係
図16 : TlCuCl3 のtriplon励起の分散関係.実線はクラスター展開法による計算結果.

KCuCl3とTlCuCl3の磁気励起の研究は海外でも重点的に行われています.これらの系の磁気励起はスピンギャップ系の典型的な磁気励起であり,新しい理論的アプローチを試す試金石にもなるため,理論的に多くの関心を集めました.一例として,ボンド演算子(bond operator)を用いた新しいアプローチが成功をおさめています.

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3-2 磁化プラトー

KCuCl3やTlCuCl3と同じ結晶構造をもつNH4CuCl3の基底状態は,相対的に強いダイマー間交換相互作用のために,非磁性のsinglet状態ではなく,磁気秩序状態になります.NH4CuCl3の最も顕著な特徴は,図17に示したように,磁化曲線が飽和磁化の1/4と3/4の位置に明瞭な磁化プラトーをもつことです.この磁化プラトーはS = 1/2のスピン系で初めて発見されたもので,多くの関心を集めています.NH4CuCl3は実験面での磁化プラトー研究の端緒を開いた物質です.現在,各プラトー相でのスピン構造や,磁化曲線のスロープになる磁場領域で起こる磁気秩序の解明を通じて,NH4CuCl3の量子磁性の総合的理解を目指しています.(東大物性研,東北大金研,上智大,原研,フランクフルト大,その他との共同研究)

NH4CuCl3の磁化曲線
図17 : 磁場をa軸に平行に加えて測定したNH4CuCl3の磁化曲線.飽和磁化の1/4と3/4に明瞭な磁化プラトーが見られる.
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3-3 新規スピンダイマー系Ba2MSi2O6Cl2

三角格子反強磁性体Ba3CoSb2O9の単結晶育成を試みている中で,私達は偶然に化学式Ba2MSi2O6Cl2 (M = Co, Ni, Cu)で表される新規スピンダイマー系を見出しました。図18(a)はBa2CoSi2O6Cl2の結晶構造です.CoO4Clピラミッドの底面の中心に青い丸で表された磁性イオンCo2+が位置しています.c軸方向に隣接する2つのCo2+のスピン間には強い反強磁性的交換相互作用が働き,ダイマーが形成されます.隣り合うダイマー間には弱い反強磁性的交換相互作用が働き,ab面内で2次元的な交換相互作用のネットワークが形成されます.

Ba2CoSi2O6Cl2の(a)結晶構造と(b)磁化曲線
図18 : Ba2CoSi2O6Cl2の (a) 結晶構造と (b) 階段状の磁化曲線(Van Vleck常磁性の補正後).

図18(b)は1.3 Kで測定した磁化曲線です.スピンとは無関係で温度に依らないVan Vleck常磁性の補正をした後の磁化曲線です.磁場の方向によらず,2段階の階段状の磁化曲線になっています.全てのダイマーは等価ですので,これはダイマー間の交換相互作用のフラストレーションが殆ど完全であること(J1 = J2)を意味しています.磁場がギャップの消失する臨界磁場に達すると,triplonが生成されますが,ダイマー間の交換相互作用のフラストレーションが完全であると,triplonは隣のダイマー上に移ることができなくなります.その場合に,triplonは互いに斥力が及ばないように一つおきにダイマー上を占めるように配置し,triplonの結晶化が起こります。この状態が飽和磁化の1/2にできる磁化プラトーに対応します.さらに磁場を大きくすると,Zeemanエネルギーを得するように全てのダイマー上をtriplonが占有し,磁化は飽和します.私達は最近,中性子散乱でBa2CoSi2O6Cl2の磁気励起を調べて,ダイマーは全て等価であることを確かめ,このシナリオが正しいことを確認しました.(本学化学系,東大物性研,東北大金研,J-PARCセンター,青山学院大との共同研究)

Ba2CuSi2O6Cl2ではBa2CoSi2O6Cl2とは異なる物理があります.結晶構造は似ていますが, Ba2CuSi2O6Cl2では図19(a)に示したような,ダイマー間交換相互作用に強弱の交代があることが分かりました.この系ではダイマー間交換相互作用のフラストレーションは弱く,磁化曲線は階段状にはならず,図19(b)のように連続的な変化になります.この磁化曲線は図19(b)の実線で示したように,2次元的に結合したダイマー模型でよく説明できます.Ba2CuSi2O6Cl2の面白い点はtriplon励起バンドに殆ど波数に依存しないバンドギャップが観測されたことです.このバンドギャップは少なくともスピンダイマー系では初めて観測された現象です.このバンドギャップの起源はダイマー間交換相互作用の交代によって生ずることが解析で分かりました.また,バンドギャップ内にトポロジカルに保護されたエッジ状態が存在することも分かりました.(本学化学系,東大物性研,東北大多元研,J-PARCセンター,米国高磁場研,IFW Dresden,愛媛大,Sorbonne大,Aix-Marsille大との共同研究)

Ba2CuSi2O6Cl2の(a)交換相互作用のネットワークと(b)磁化曲線
図19 : Ba2CuSi2O6Cl2の(a)交換相互作用のネットワークと(b)磁化曲線.実線は厳密対角化によって計算した磁化曲線.実験と理論の一致は良く,2次元性が良いことを表している.
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3-4 交換相互作用のランダムネスが誘起する量子無秩序状態

スピン1/2の正方格子Heisenberg反強磁性体のモデル物質は酸化物超伝導の母物質であるLa2CuO4など幾つも知られていますが,磁化率や比熱が室温以下で顕著な温度変化を示す交換相互作用の値が100 K程度の物質はそれ程多くはありません.これまでに,図20(a)に示したSr2CuWO6のようなdouble perovskite銅化合物で100 K程度の交換相互作用をもつ物質が知られています.これらの物質ではJahn-Teller効果のために,CuO6八面体はc軸に沿って伸び,Cu2+の正孔軌道はab面内に広がっていて,良い2次元性が生まれます.しかし,Sr2CuWO6では図20(b)に示した第2近接交換相互作用J2が最近接交換相互作用J1よりも相当に大きく,単純なS = 1/2正方格子Heisenberg反強磁性体ではありません.私たちはSr2CuWO6と同じ結晶構造を持つ物質Sr2CuTeO6で最近接交換相互作用J1が支配的であることを見出しました.この違いが超交換相互作用を媒介する非磁性イオンの最外殻閉殻電子の軌道の違いによることを突き止めました.W6+とTe6+の最外殻閉殻電子はそれぞれ5p,4d軌道で,この違いがJ2J1の大小関係の違いを生じさせます.(東北大多元研,オーストラリアANSTOとの共同研究)

Sr2CuMO6の(a)ab面内の結晶構造と(b)正方格子J1-J2模型,(c)Sr2CuTe1-xWxO6の比熱
図20 : (a) Sr2CuMO6 (M = W, Te) のab面内の結晶構造と,(b) ab面内で実現する正方格子J1-J2模型.(c) Sr2CuTe1-xWxO6の比熱Cを温度Tで割ったC/Tの温度依存性.磁場は加えていない.挿入図は低温部分を拡大したもの.

フラストレーションのある量子スピン系に交換相互作用のランダムネスが加わると,singletがランダムに形成され,基底状態が無秩序状態になることが最近の理論で示されました.Sr2CuWO6ではJ2が支配的で,Sr2CuTeO6ではJ1が支配的ですので,混晶系Sr2CuTe1-xWxO6ではS=1/2ランダムJ1-J2正方格子Heisenberg反強磁性体が実現します.私たちはSr2CuTe1-xWxO6の低温磁性を磁化率,比熱,NMR測定で調べ,基底状態が量子無秩序状態であることを見出しました.図20(c)は比熱Cを温度Tで割ったC/Tの温度依存性です.混晶比xが有限になると,低温でC/Tが一定になり,比熱に温度に比例する成分が生ずることが分かります.これは理論と一致する結果です.しかし,さらに温度を1.2 K以下に下げると,比熱の温度に比例する成分がxの値に依らず急速に減少します.この急速な減少はZeemanエネルギーが1.2 Kを大きく超える9 Tの磁場中でも起こることから,triplet励起によるSchottky異常ではなく,磁場の影響を受けないsinglet励起によるSchottky異常であることを示唆しています.Sr2CuTe1-xWxO6で観測された外見がスピン液体のような量子無秩序状態の微視的理解は今後の研究課題です.(上智大との共同研究)

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